人間あるあるを、早く言いたい。
何に代えても、必ず言わなければならない。
病床に伏した今になって、やっと気づいたのだ。
1個だけある、人間あるあるに。
そして、私がこれまで生を享受していたのは、あるあるを言う為であったという事実に。
孔子は五十にして天命を知ると言ったが、私にはその倍近くの時間がかかった。
だが、生きているうちに使命に気づくことが出来ただけでも幸せな事であろう。
こうしている間にも、死は確実に近づいている。
人間あるあるを、早く言いたい。
なぜ私があるあるを言いたいのか。
それをこの残り少ない寿命の中で語るのは、些か困難だ。
それにしても、ここまで死期が迫っている中であるあるに気づくことが出来るとは、なんたる奇跡か。
いや、むしろ死が直前にあるからこそ、この人間あるあるに気づくことが出来たのかもしれない。
三途の川が遠くに見えた時、見つけ出した人間あるある。
人間あるある、早く言いたい。
しかしふと思う。
あるあるとは何なのか。
あるあるは、とても傲慢なものだと私は思う。
なぜなら、「あるある」という言葉が、「自分が一般的だと感じる物事は世間的にも一般的だ」という驕りを含意しているからだ。
これはまさに、マジョリティ側の考え方だといえる。
マイノリティへの配慮を鑑みるのであれば、「あるある」という言葉は使用されないべきだ。
ある人はある、ない人はない。
「あるない」というのが、1人として取り残すことのない正しい表現だろう。
しかし私は、あるあるを言う。
例え誰かを傷つけてしまおうとも。
人間あるある、早く言いたい。
私がここまで早く言いたいと言いながら、あるあるを発することに逡巡しているのには理由がある。
今私の頭の中にあるこのあるあるが、本当にあるあると言えるのかということを、未だ決めかねているからだ。
もちろん、「あるある」と言いながら、全く共感出来ないことを言えばそれはそれで笑いを誘うことが出来る。
だとすれば、何も考えず全くありえない事を「あるある」として言えばいいのではないか。
しかし、それではもはや「ないない」である。
「あるある」と言いながら「ないない」を発する。
これも1つの形だと言えよう。
だが私は真の「あるある」を言いたい。
本当に共感してもらえるもの。
それこそがあるあるである。
そんな美学を、死の間際まで持っていること。
それを私は誇りたい。
だが、この死までの短い小路では、共感の有無を想像する所まで頭を回すことができない。
脳が活動を止め始めている。
命の灯火が消える前に、後世に伝えなければならない。
1個だけある、人間あるあるを。
早く。
この命が、尽きる前に。
早く、言いたい。
早く。
早く。
早く、言わなければ、いけない、のに。
言えない。
人間あるあるを、言えない。
何者かが、あるあるを、邪魔している。
あるあるを、残せない。
残せない、ならば。
後世にこう伝えよう。
「人間あるあるか?欲しけりゃくれてやる
探せ!この世のすべてをそこに置いてきた」
『男(あるある探検隊)たちは、
グランドラインを目指し、夢を追い続ける。
世はまさに、大あるある時代!』