閑古鳥の唐揚げ

全然客が来ない定食屋で鳴いていた閑古鳥を唐揚げにしたら美味しくて繁盛したが閑古鳥がいなくなり唐揚げが作れなくなったという古典落語があります。嘘です。このブログも繁盛させたいです。

第18唐 ポスター

見知らぬ住宅街を歩いていると、見知らぬ政治家の見知らぬ選挙ポスターを目にする。

見知らぬ、とは言ってもデザインはほとんど同じようなもので、加熱処理が必要なほど鮮度に欠ける。

彼らが考えるのはキャッチコピーや名前の平仮名表記の有無だけで、それらを枠に当てはめればいいとしか考えていないのだ。前例に囚われないという概念自体がない。赤城乳業を見習うべきという指摘ももっともだ。

 

だが先日、見知らぬ住宅街の中でも特に見知らぬ住宅街の中で、異彩を放つポスターを見つけた。

 

そのポスターの中央に鎮座する女性は少し微笑んでいて、センター分けの長い髪はソバージュがかっていた。丸みを帯びた肉体を隠す服は暗色の長袖で、胸の少し下で軽く手を重ねており、背景には山脈や湖が描かれている。

 

モナ・リザだった。

 

しかし、オリジナルが持つ繊細で独特な空気感はもはや存在を消していた。より正確に言うならば、脳の処理能力が他の要素に優先的に配分されることによって感性が鈍らされ、その空気感を感じることが出来ないよう仕組まれていた。

 

まるで繊細な味を覆い隠すカレー粉のように視覚の仕事を妨げていたのは、繊細とは無縁の太字ゴシック体だった。

 

左側の「新人・無所属」「市議会議員候補」、右側の「微笑を絶やさない国・日本に!」、下部の「モナ・リザ」。大きな印字達によって、数多の研究者を躍起にしてきた描写の数々は人々からの注目を剥奪され、もはや意味を失っていた。

 

ただでさえ鑑賞者に圧力を感じさせるそのポスターだが、ブロック塀に5枚並べて貼られていることによってその存在感は更に圧倒的なものに昇華されていた。

そもそも、通常の選挙ポスターでさえ5枚並んでいると多いと感じるだろう。2枚までであれば、意味を強調する効果が期待できるかもしれない。しかし、3枚以上は野暮だ。

だからこそ、巷に流れる言葉は基本的に1回しか重なることは無い。タルタルしかり、ジャルジャルしかり。もちろん、前者は重ねなければドンキーコングの代名詞になってしまうし、後者は航空会社になってしまうのだが、それはまた別の話だ。

 

しかし、よく考えてみれば、2回言葉を重ねる、つまり3回同じ言葉を並べるものも意外と多くあるのではないかとも思える。大ヒットしたAKB48「会いたかった」もそのタイトルの詞をサビで3回歌い上げるし、ザ・たっちも3連続が基本だ。

また、5つ同じものが並んでいるというのも、状況によっては非常に強いパワーを持つこともある。ポーカーであればロイヤルストレートフラッシュをも上回るし、まして五目並べであればゲームの勝利条件そのものだ。

そう考えると、5連続も悪くないのかもしれない。私は白と黒の裸眼でもう一度モナ・リザの選挙ポスターを見ようとした。

 

 

しかし、少し考えが脱線しているうちに、そのポスターは姿を消していた。

夢だったのだろうか。そんな私の心のつっかえは、開票日の夕方に報じられた、「モナ・リザ」と書かれた無効票が大量に投票されていたというニュースによってきれいに取り外された。

 

 

全ては、老害化したバンクシーの仕業だった。