大雪への警戒を呼びかける朝の天気予報を思い出し、私は軽く舌打ちをした。
「なんでこんな日に車で出掛けるんだ。」
自分もその一員であることも分かった上で、フロントガラスの向こうで連なる赤いテールランプに文句を当てつける。
そんな私の心の棘は、左側に目を移すや否や瞬く間に消えていった。サイドシートで眠る彼女は、まるで子供のように微笑みを浮かべている。ついさっきまであんなに私を苛立たせていた赤い光の数々は、彼女の魔法によって、今やこの世のものとは思えないほど綺麗に見えた。
それと同時に、何か引っかかりを覚えた。大雪による渋滞。赤いテールランプの列。サイドシートの彼女。子供のような微笑み。どこかで見た訳ではない。しかし、なぜか既視感を覚える光景だった。
もう一度彼女の寝顔を見る。彼女は微笑みを浮かべたまま、眠れる森の少女のようだ。
「眠れる森の少女。」
私は、違和感のあるこの言葉を思わず呟いた。私の心に浮かぶにしては、あまりにも綺麗な言葉だったからだ。だが、何度思い返しても、私の引き出しに入っている理由に思い当たる節はない。
私は少し怖くなり、つい彼女の体をゆすってしまった。
その後の彼女の行動は、全て予想できた。
起こした私を恨めしそうに睨み、手を握り返し、「愛が欲しい・・・」と言うのだ。
「なんでもない夜、か。」
やっと全てを理解した。
この夜の全ての出来事は、ちょうど1年後に思い出すために存在するのだ。
二度とは戻れない夜に、今私はいる。
私の心の靄は晴れたが、すぐに暗澹たる霧に包まれた。
これがなんでもない夜であることは、彼女との別れをも意味する。
冬も終わりに近づく頃に、彼女は病室のベッドの上で眠れる森の少女となってしまうのだ。
突如として始まった別れへのカウントダウンを受け入れられるはずもなく、私は瞬きも忘れて、すでに生命が芽吹いているであろう彼女のお腹を見つめていた。
その時、彼女がゆっくりと目を覚ました。
彼女は私の思いとは裏腹に、私を恨めしそうに睨んだ。
やはり、なんでもない夜なのか。
なんで、なんでなんだ。
なんで、今夜はなんでもない夜なんだ。
なんでもない夜にしないためなら、なんでもする。
なんでもするから、なんでもない夜にしないでくれ。
どうか、私の手を握り返さないでくれ。
私の心を嘲笑うかのように、彼女は私の手を握り返した。
私は天を仰いだ。
なんでもない彼女の動作1つ1つが、私を地獄に突き落としていた。
彼女の口が開きかけた瞬間、思わず目を瞑った。
その時、瞼の裏を駆け巡ったのは、彼女との思い出の数々だった。
それは、本来なら忘れてもおかしくないような、とりとめもない毎日の記憶だった。
なんでもないようなことが、幸せだった。
いつもの朝と変わらない起き抜けの彼女の声が、耳に届いた。
「トイレ行きたい・・・」
私達は、最寄りのコンビニに寄った。
いつの間にか、雪は雨に変わっていた。
あれからちょうど1年。
私達は、「新婚さんいらっしゃい!」に出演した帰りの車の中にいた。
YES NO枕を積んだ車は、渋滞に捕まっていた。
今夜は大雪だ。