閑古鳥の唐揚げ

全然客が来ない定食屋で鳴いていた閑古鳥を唐揚げにしたら美味しくて繁盛したが閑古鳥がいなくなり唐揚げが作れなくなったという古典落語があります。嘘です。このブログも繁盛させたいです。

第12唐 赤い水垢 白いのりしろ

トルティーヤの実がなる頃、珠子は10度目の成人を迎えた。

太極拳を極めたことで紫綬褒章を受賞した彼女は、サイケこうせんの命中率が100%ではないことを証明し、ノーベル物理学賞を受賞したただ1人のモンゴル人であることもよく知られている。

ジュゼッペ・ロッシの記念すべきプロ初ゴールは彼女に捧げられたが、それは彼女が「サッカーは退屈すぎる。1つのゴールが決まるまでに卵を200個は割ることができる。」と発言したことへの皮肉であった。彼は、ゴールを決めた後にチームメイトから渡された卵をリフティングし、それを割ることなくゴールネットに突き刺した。観客に見せつけたアンダーシャツに記された「俺は1つも卵を割らずにゴールを決める」という言葉は、各紙で一面を飾った。

また、彼女は大学時代にも注目の的であった。彼女は軽音楽部に所属していたが、「学生バンド」という肩書きを非常に気に入っており、この肩書きを失わないために何度も入退学を繰り返したという。なお、この時の入学金・授業料等は全てライブのチケット収入で賄っていた。彼女は「学生バンド」が好きな理由を「語感」と語っており、同様の理由で「革命三度」「悪性ダンボ」などの言葉も好んでいる。

30年間の学生生活に終止符を打ち、大学を卒業した彼女は、一度税金として国庫に収まったのち、モンゴル人初の韓国軍員として徴兵を受けた。実際は彼女は1964年東京五輪の女子花火で銀メダルを獲得したため徴兵を免除される権利を得ていたのだが、その権利を競馬でスってしまったため、2年間の兵役に臨むこととなってしまった。

しかし、彼女がこの五輪で見せた「打ち上げ」という技は、多くの花火ファンを魅了した。それまで「手持ち」が主流だった花火だが、彼女の演技を期に「手持ち」と「打ち上げ」の流派に分かれることとなる。彼女の名前は、今もなお打ち上げ花火に対して叫ばれる「たまや」という言葉に息づいている。(なお、この時金メダルを獲得したのは歴史上唯一の「線香」の使い手である聖子であった。)

彼女が晩年を過ごしたのは広島県尾道であった。彼女は映画「転校生」を人生で3000回は鑑賞しており、その度に尾道に住みたいと願っていたという。そんな永年の夢が叶った彼女だが、実際に尾道に住んでみて最も良かった点は「背脂の美味しさに気づいたこと」だったと言う。こうして、彼女の夢は「尾道に住むこと」から「ラーメンを食べてついた自分の背中の脂をラーメンにして背脂永久機関を完成させること」へと移った。

そして12回目の丑年を迎えた年、彼女は遂に寝たきり状態となってしまった。入院してからの衰えは著しく、彼女の容態を聞きつけた人々の中で生前の彼女の姿を見ることが出来たのはたったの3人だったという。

孫のように可愛がっていた修繕工、尾道時代隣に住んでいた市議会議員、そして高校時代の恩師。彼ら3人が見守る中、彼女はゆっくりと、しかしはっきりとした言葉を置いていった。

「妻夫木夫妻って、回文だわな。」

彼女の辞世の句は、自由律だった。